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2009年04月20日
【転載歓迎】NHK「JAPANデビュー」第一回放送分の内容全文
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★オープニング
JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた そしてどう生きる
NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー
第一回 アジアの“一等国”
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★今の横浜港の風景
語り・濱中博久:
// 今から150年前、西暦1859年。ここ、横浜の港から、日本は世界の荒海に船出しました。長年の鎖国を解き、自由貿易を開始。西洋列強を目標に、日本は近代化の道を歩み始めます。
1859年、ジャパン、世界デビュー。
それから60年後。第1次世界大戦で戦勝国となった日本は、世界の一等国へと登りつめます。しかし、1945年、太平洋戦争に敗れ、日本は焦土と化しました。日本は何故、坂を転がり落ちていったのか。開港から敗戦までの変遷を辿るシリーズ「JAPANデビュー」第一回のテーマはアジアです。
// 日本の南西に位置する台湾。ここは日本の最初の植民地となった場所です。近代日本とアジアの関わり、その原点はこの地にあります。毎年秋に行われる道教の祭り。台湾の住民の殆どは中国大陸から移り住んだ『漢民族』です。日本は太平洋戦争の敗戦まで、50年間に渡り台湾を支配しました。台北市の公園に、日本の統治時代を生きた台湾の人々がいました。
★台北市、公園の風景
元日本兵台湾人:
「当時の大日本帝国軍人、一番二千八百部隊、とみらたいい?でございます。よろしくおねがいします(敬礼)。死に損なった日本兵ですよ。あのですね・・・」
※喋り続けているが音声が絞られる。
// 太平洋戦争当時、台湾の青年たちは日本軍の兵士として、戦場に駆り出されました。
複数の台湾人のお年寄り:
「日本男児と生まれ来て、戦の場(にわ)に立つからは、名をこそ惜しめ武士(つわもの)よ、ハハハ・・・」
「守るも攻めるもくろがねの、浮かべる城ぞたのみなる」
※以後、複数人で合唱。
// 日本は台湾の統治に力を注ぎ、この島を足がかりに、アジアへと勢力を拡大しました。
「仇なす国を、攻めよかし」
※先ほどの合唱の続き。
// 半世紀に及ぶ統治で、日本は台湾の人々に、日本語をはじめ、日本精神を叩き込んでゆきました。そして太平洋戦争中、およそ21万の台湾人を日本軍に入隊させ、次々と戦場へ送り込みます。台湾は日本のアジア支配、大東亜共栄圏の基点となってゆきます。
日本の傀儡国家、満州国。ここに5千人を越す台湾人が移り住みました。台湾の人々は、満州国の役人や技術者となり、日本の支配を支えました。太平洋戦争勃発後、日本が占領したインドネシア。台湾での統治経験を生かし、人々に日本精神の体得を強制してゆきます。
★そろばんをする授業風景
東南アジア系の少年:
「わたしたちは、どんな苦しいことでも我慢して、力いっぱい働いています。あのアメリカやイギリスやオランダに負けてはいけないと思うと、どんなことでも苦しくありません。」
語り・礒野佑子:
// 日本のアジア支配の原点となった台湾。そこから、近代日本とアジアとの関係が見えてきます。50年間の日本の台湾統治を象徴する2枚の写真です。『人間動物園』。そして『台北第一中学校の生徒たち』。
// 台湾の先住民族です。およそ100年前、日本は彼らをロンドンに連れて行き、博覧会の見世物として展示しました。この写真には、世界にデビューした日本が、一等国へと登りつめるまでの歴史が秘められています。
語り・濱中博久:
// 日本が開港して間もない19世紀後半、西洋列強が注目していたのは、台湾でした。当時、イギリスやフランスなど列強は、アジアに狙いを定め、競い合って植民地を獲得していました。台湾は、列強にとって地理的に重要な場所でした。台湾を基点に、中国大陸へ勢力を拡大しようと目論んでいたのです。フランス外務省に残された資料(1895)です。
「イギリスやドイツが台湾を獲得しようとする動きがある。彼らが台湾を侵略するのなら、フランスは何らかの行動をとる。」
// 列強の植民地奪い合いの最前線となった台湾。その台湾を領有したのは、JAPAN、日本でした。日清戦争に勝利した日本は、台湾を獲得します。この台湾領有の背景には、列強のアジア進出に対する、日本の危機感がありました。世界の植民地を研究している、パスカル・ブランシャールさんです。
フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「日本を開港させたのは、アメリカの軍艦でした。また、フランスは東南アジアのベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、中国南部にも勢力を広げていました。フランスの軍部では、日本の植民地化も議論されていたほどです。そこで、日本は植民地化されない国になるため、欧米列強にならい、自ら植民地を持つべきだ、と考えたのです。」
// 明治政府が外交上の指針としたのは、西洋列強の間で定められていた国際法、萬國公法です。ここには、国のランクが記されています。
「世界の国々は、一等国、二等国、三等国に分かれている。一等国とは、イギリスやフランスなどヨーロッパの5大国である。三等国は他国の意のままになる。」
// 日本は、こうした世界観をもつ西洋列強と向き合わなくてはなりませんでした。日本は、防衛ラインを広げるため、アジアへと進出。日清戦争に勝利した1895年、南の要として台湾を獲得したのです。同じアジアである台湾を、最初の植民地としました。現地統治機関、台湾総督府を置きます。当時の首相、伊藤博文は台湾の統治が、一等国を目指す日本の命運を握っていると考えました。
「台湾の統治に失敗すれば、日の丸の御旗の光が失墜する。」
(伊藤博文首相)
// 初めての植民地を、日本はどのように統治したのか。その詳細を知る手掛かりがあります。台湾総督府文書です。日本内地の行政文書は、太平洋戦争終結直前に、多くが焼却されています。台湾総督府文書は、統治の実態を明らかにする貴重な資料です。台湾領有から敗戦までの、50年間の記録は2万6千冊に及びます。
総督府は、衛生、教育、軍事、民政、警察など、最大でおよそ2万7千人の官僚を抱える、巨大な組織でした。日本は統治に力を注ぎます。しかし、領有直後から問題が噴出します。
『漢民族』としての伝統や誇りをもつ台湾人が、激しい抵抗運動を起こしたのです。台湾中部、雲林に暮らす邱順位(キュウジュンイ、74)さん。邱さんは、親類たちから住民が武器を取って、日本軍と戦った様子を伝え聞いています。
邱順位:
「(字幕)日本軍は川の下流から来ました。台湾人は川の両岸で待ち構えていました。山の中にも潜んでいました。日本軍を取り囲んで、射撃したのです。しかし、日本軍の攻撃はすさまじく恐ろしかった、と聞いています。このあたりの川は、死者の血で真っ赤に染まったといいます。」
// 武力で制圧しようとする日本軍に対し、台湾人の抵抗は激しさを増してゆきます。戦いは全土に広がり、後に、『日台戦争(1895)』と呼ばれる規模に拡大してゆきました。戦いによって、台湾の宝といわれる重要な産物が被害を受けます。クスノキから作られる、樟脳という物質です。台湾の樟脳は、世界のシェアのおよそ7割を占め、西洋列強から注目されていました。
語り・礒野佑子:
// 19世紀後半、イギリスでは樟脳を使ってある製品が作られていました。当時、新しい素材として爆発的に普及していた、セルロイドです。様々な生活用品に使われる万能の合成樹脂でした。
★英国、科学博物館保管庫
女性職員:
「セルロイドは美しい素材として、とても人気がありました。真珠の代わりとしても使われました。これは、ビクトリア女王の即位75周年に使用されたものです。」
// 樟脳は軍事面でも需要がありました。スウェーデンの科学者、アルフレッド・ノーベルです。1887年、ノーベルは樟脳を使い、新しい火薬を開発しました。煙の少ない無煙火薬です。無煙火薬は、相手に居場所を探られ難いことから、世界中の軍隊で使われるようになります。世界に広く輸出されていた台湾の樟脳。しかし、混乱する日本の統治下、樟脳工場は次々と操業を停止してゆきます。
★背景・旧イギリス領事館(台湾)※CG
語り・濱中博久:
// 行き詰まる日本の統治を、台湾のイギリス領事館は冷徹に観察し、本国に報告していました。日本が台湾を領有した翌年、1896年の報告です。
「数ヶ月前には価値のある重要だった樟脳の産地が、日本の統治によって永遠に廃墟になってしまった。」
// フランスもまた、日本に厳しい評価を下していました。
「非常に素晴らしい島が、まったくの未経験者に支配された。きわめて残念なことだ。」
// 日本の台湾統治を研究してきた、マーク・ピーティーさんです。
スタンフォード大学客員教授、マーク・ピーティー:
「日本は自らの植民地統治を、未熟だと認識していました。しかし、一方でヨーロッパの植民地大国である、イギリスやフランスに自分たちには統治能力がある、と示したいと考えていました。ですから、台湾統治の結果は、日本にとって大変重要でした。日本は台湾を自らの能力を見せるための、ショーケースにしたかったのです。」
// 台湾統治を成功させ、一等国を目指す日本。しかし、統治の方法を巡り、政府内で大きな混乱が起きていました。原因の一つは、明治政府が作った憲法にありました。台湾領有の6年前に発布されたこの憲法には、植民地の規定が記されていなかったのです。明治憲法の下では、日本の領土に生きる人は、皆、天皇の臣民であるとされました。これに従えば、日本が領土とした台湾の人も、天皇の臣民となります。しかし、民族も習慣も異なる台湾人を、臣民として日本人と同様に扱うべきか、議論が起きます。
// 日本は世界の二大植民地大国、フランスとイギリスを参考にします。フランスがアルジェリアの統治で掲げたのは、同化政策でした。フランス国内と同じ法律を、アルジェリアにも適用し、フランス国民として生きるよう求めました。
一方、イギリスの植民地、インドの統治は対照的なものでした。イギリスは、イギリス人とインド人を明確に区別し、現地のみに通用する法律、特別法によって統治しました。
日本の下した結論は、いわばフランスとイギリスの折中案でした。台湾人を日本人と同じ天皇の臣民と位置づけながら、台湾のみに通用する特別法を定めたのです。
// 台湾領有から3年後、一人の官僚が台湾に着任し、統治の改革に乗り出します。総督府ナンバー2の民政局長、後藤新平です。後藤は、台湾全土の調査を行います。臣民と位置づけられた台湾人の、実態を把握するためでした。
台湾には『漢民族』の他に、パイワン族をはじめ、14の先住民族が暮らしています。先住民族が暮らす山あいの地域は、樟脳の産地に近いことから、治安の安定が一際重要でした。後藤は、先住民族の村々に自ら足を運びます。そして、日本からは人類学者や法律の専門家が入り、調査をします。台湾総督府文書の中に、先住民族の調査報告書が残されています。
国史館台湾文献館研究員、陳文添:
「(字幕)これは当時、台東地域で生活していた先住民族です。顔の入れ墨や使用していた武器も、きめ細かく描かれています。この民族には首狩りの習慣がありました。」
// 後藤が語った言葉があります。
「ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。」
// 台湾人を日本人に変えることは難しい。風習や文化が異なる台湾人を、臣民として同じ法律で統治していくことは困難であると判断します。後藤は、台湾のみに適用される法律、特別法を駆使してゆきます。まず手をつけたのは、住民の抵抗運動を抑えることでした。後藤が考え出した条例、匪徒刑罰令です。日本内地ではありえない、厳しいものでした。
「略奪、殺傷のみならず建物や標識、電波塔を破壊したものは死刑。未遂であっても同罪とする。」
// 総督府警察が匪徒、犯罪者と見なせば、例え未遂でも死刑に処せられました。匪徒刑罰令によって死刑になった台湾の人々です。条例施行後の5年間で、3千人に達しました。日本統治への抵抗を根絶させるため、後藤は、台湾人の協力者を取り込んでゆきます。柯(か)徳三さん、87歳。柯さんの祖父は、日本の統治に協力した一人でした。祖父・秋潔さんです。一家は、中国福建省から移り住んできた『漢民族』でした。秋潔さんはいち早く日本語を学び、日本の統治下で生きていく決意をします。
柯徳三(日本語で語る):
「金の無い貧乏の農民として渡って来て、私の祖先ですね。渡って来たその祖先たちはね、この土地で騎兵して田畑を植えて生活してるのに、いまさら大陸に戻ったら何もできない。びた一文無い。だから結局、帰れない。」
// 地区のまとめ役だった秋潔さんは、住民を監視し総督府に報告する役割を担わされました。後藤は、秋潔さんのような人物を組織化してゆきました。
柯徳三(日本語で語る):
「あのー住んでる住民たちをね、一人でも洩らさないようにコントロールできるわけだ。」
NHKスタッフの声:
「周りの人達からどう思われてたんですかね?」
柯徳三(日本語で語る):
「周りの人達はおそらく、あのー僕らが少年の時はああいうことは分かりません。大人になってから後で考えたらね、おそらくあんたは日本人の走狗(手先)だと。日本人に使われてた奴隷だと。そういう考え方やっとったんかもしれませんね。ああ。」
// 後藤は、日本人児童が通う小学校とは別に、台湾人児童が通う公学校を開設。統治に必要な日本語の初等教育を始めます。柯秋潔さんは、公学校の日本語教師も務めます。日本の統治に協力してきた秋潔さんは、息子の文徳さんを、日本人が通う小学校に入学させます。それまでの功績から、通学が認められると考えたのです。しかし、このことが総督府で大問題となります。台湾総督府文書に、小学校校長の報告書が残されていました。
「台湾人子弟在籍の事件。柯文徳という台湾人が、学校内にいることを発見しました。誠に恐縮なことでありまして、直ちに退学を命じました。」
// 後藤は、全ての学校に通達を出します。
「台湾人の児童と日本人の児童は、教育の目的が異なる。こうした規則が徹底されなければ、統治の目的は永久に達せられない。」
// 退学させられた柯文徳さんは、徳三さんの父親です。
柯徳三(日本語で語る):
「もしこれを許せば、総督府がこれを許せば、小学校にどんどん台湾人が入るかもしらんと恐れたんでしょ。つまり、あの、化外の民である台湾人を、あの、日本語を教育するために、公学校というのをこしらえたんだから、おまえらは喋ることにことかかず、普通の生活にことかかない程度の日本語を覚えればそれでいいんだ。そういうつもりなんでしょ。」
// 後藤は、統治の基礎を固めながら、台湾の宝である、樟脳産業の建て直しに着手します。生産現場を管理し、労働者への指導を徹底します。
元樟脳工場労働者・許雲集(91):
「(字幕)一カ所でクスノキを切り終わったら、すぐ別の場所で働けと命じられました。」
★キールンの風景
// 樟脳貿易の拠点となった港、キールン(基隆)。後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り変えました。さらに、南北400キロを結ぶ、縦貫鉄道を建設。樟脳の輸送ルートを確保しました。
総督府は、樟脳の販売を独占します。後藤が赴任した2年後には、樟脳の事業は赤字を解消。現在の価値で、年間およそ100億円の収入をあげるようになります。
「台湾10年間の進歩」。後藤の時代に、総督府が出版した欧米向けのパンフレットです。そこでは、台湾が金の成る島になったことをアピールしています。台湾を急速に発展させた日本には、一等国の資格があることを強調したのです。イギリスの商社にとって、台湾の樟脳は重要な貿易商品でした。後藤の改革により、樟脳が安定的に供給されるようになったことを、イギリスは歓迎します。
イギリス人の樟脳産業調査報告:
「日本の政策によって、我が国にも多大な利益がもたらされることになる。今後半世紀にわたり、台湾の樟脳は、世界中に供給されるであろう。」
// 台湾領有から15年後の1910年。日本は、統治の成果を世界に示す絶好の機会を得ます。ロンドンで開かれた日英博覧会。日本とイギリスの友好関係を祝う催しでした。近代国家として坂を駆け上ってきた、JAPAN。会場では、日本の産業や文化が幅広く紹介されました。訪れた観客は、およそ800万人。特に人気を集めたコーナーがありました。台湾の先住民族パイワン族。日本は会場内にパイワンの人々の家を作り、その暮らしぶりを見世物としたのです。
// 日英博覧会のガイドブックです。そこには、パイワンの人々が客の前で戦いの踊りをし、戦闘のまね事をする、と記されています。当時、イギリスやフランスは博覧会などで、植民地の人々を盛んに見世物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本は、それを真似たのです。
フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、人間動物園だったというわけです。この時代、日本もまた、世界には民族の違いに基づいて階層がある、と考えるようになりました。そして自分たちは、階層の頂点にあり、その下にアジアの他民族がいる。そうした世界観がはっきりと根付いていったのです。」
★台湾南部、高士村の風景
// 台湾南部、高士村。パイワン族が暮らす村です。およそ100年前、日英博覧会に連れて行かれたのは、この村の出身者達でした。
// 博覧会の会場で売られてい、たパイワンの人々の写真です。裏には高士村から来た、と記されていました。展示された青年の息子、許新黄さん(85)。そして娘の高許月さん(79)です。父親の名は、チャバイバイ・ブリャルヤン。チャバイバイさんは生前、博覧会について、子供達に語ることはありませんでした。
高許月:
「(字幕)悲しいね。この出来事の重さ語りきれない。」
許新黄 → 取材に同席していた近所のパイワン族の方(日本語):(※1)
「悲しいね、語りきれないそうだ。悲しい、この重さね、話しきれないそうだ。」
語り・礒野佑子:
// ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。後藤新平は、独自の法律で抵抗運動を抑え、樟脳産業を立て直しました。日本は台湾統治の成功を誇示し、世界に一等国入りをアピールしました。その後の台湾統治を象徴する一枚の写真。「台北第一中学校の生徒たち」。この写真には、台湾人に日本の文化を叩き込み、民族性まで奪っていった歴史が秘められています。
語り・濱中博久:
// 1914年、日本の台湾統治に大きな影響を及ぼす戦争が起こります。第一次世界大戦です。日本は、この時、イギリス側に立って参戦。戦勝国の一員となります。1919年、パリ。第一次世界大戦の戦後処理を話し合う、パリ講和会議が開かれました。日本は、この国際会議に、イギリスやフランスなどと並んで、初めて五大国の一つとして招かれます。64人の大代表団を送り込んだ日本。JAPANは、ついに列強から一等国と認められたのです。この時、アメリカ大統領ウィルソンの発言が、世界の植民地に大きな影響を及ぼしていました。民族自決主義。それぞれの民族が、自らの運命を決定する権利を持つ、という考え方です。
語り・礒野佑子:
// ヨーロッパでは民族自決主義に基づいて、ポーランドやチェコスロバキアなどが独立を果たしてゆきます。民族自決主義は、アジアの植民地にも火をつけます。民衆に呼びかけるインドの指導者、ガンジーです。ガンジーは、イギリスの統治に対抗し、非暴力不服従運動を展開していました。フランス統治下のベトナムでも、民衆の抵抗運動がはじまります。そうしたうねりは、ホーチミンの武装闘争へと発展してゆきます。
日本が統治していた朝鮮でも、独立を求める激しい抗議行動が起きます。「三・一運動」です。市民がデモを繰り返し、朝鮮総督府の警察と衝突。多数の死傷者が出ました。そして、台湾でも、日本の統治に異議を唱える運動が始まります。
語り・濱中博久:
蒋松輝(しょうしょうき)さん96歳。蒋さんの父親は、民族運動を率いた一人でした。当時は病院を経営する、医者でした。
蒋松輝(日本語で語る):
「向こうに見える義美というお菓子屋。あそこは親父の病院、大安病院の跡です。上は初めは病室だったけど、後は運動の集会場になった。あの当時の民族運動の本拠地だったんです。」
// 父・蒋渭水(しょういすい)です。蒋は、武装闘争ではなく、出版や講演会などの言論を通じ、民衆に民族意識に目覚めるよう呼びかけました。
蒋松輝(日本語で語る):
「警察が民衆の中に入り込んでいるから、誰がどういう思想をもっているか、一目瞭然だ。だから武装闘争できるはずがない。」
// 台湾議会設置請願運動。台湾住民からなる議会を設置し、法律と予算を審議する権利を要求しました。いわば、台湾人の自治を求めたのです。1921年、日本の国会に台湾議会設置の請願書が提出されます。この時、日本は世界の民族自決の潮流と逆行します。
首相、原敬は、議会で自らの統治方針を語りました。
「台湾のすべての程度に応じて、内地の法律を施工する。」
// 原がすすめようとしたのは、同化政策です。法律上、台湾を内地と同様に扱うことで、民族運動をおさめようとしたのです。原が示した方針に対し、議員から疑問が投げかけられます。
「フランスでは同化政策を採用していたが、次第に廃棄している。今これから日本だけが同化政策を採るのか。」
// このころ、フランスはアルジェリアの同化政策を放棄していました。住民の反対運動が激しさを増し、植民地を同じ法律で統治することの限界が露呈していました。しかし、原は答えます。
「他の国がどうであるからと言って、日本にもそれを敷くわけにはいかない。他の国の植民地と日本の植民地は違う。現に、ここに内地同様になった例がある。琉球だ。」
// 明治維新の11年後、琉球は、沖縄県として日本に組み込まれます。沖縄には内地の様々な法律が、次第に導入されてゆきました。参政権が認められ、税制や徴兵制がしかれました。その結果、日露戦争では、2千人の沖縄出身者が、日本の兵士として戦場にたちました。原は、台湾議会の設置を認めませんでした。台湾人が明治憲法下で同じ臣民である、と定められている以上、沖縄のように同化することを求めたのです。
// 台湾の同化政策で、まず重視されたのが教育でした。それまで台湾人は、日本人と別々の学校に通っていました。同化政策によって、同じ小学校に通えるようになります。さらに日本人しか通うことのできなかった、中学校への進学も許可されました。
★同窓会の風景
// かつて父親が日本人小学校を退学させられた、柯徳三さんです。柯さんは同化政策によって、日本人と同じ小学校を卒業し、中学校に進学しました。柯さんが通った旧制中学校、台北第一中学校を卒業した台湾の人々です。78歳から96歳までの卒業生が一同に会した同窓会です。台北一中時代の柯徳三さんです。クラスメイトは50、そのうち台湾人のクラスメイトは二人だけ。その他はみな日本人です。同化政策の実態は、台湾人にとって厳しい制限つきのものでした。
卒業生(日本語で語る):
「そいでね、一中なんかね、あんた台湾人はね3%ぐらい。」
卒業生(日本語で語る):
「台北一中を受けるために日本人より勉強しないと受からない。」
柯徳三(日本語で語る):
「小さい時は日本人になりたい。どうして台湾人というものに生まれたかなんて考えた。」
// 狭き門をくぐり抜け、中学校に入学した台湾の生徒たち。しかし日本人が大多数を占める中で、より多くの偏見や差別に苦しめられることになります。
柯徳三(日本語で語る):
「台湾人の豚肉の角煮、ローバーだな。ああいうものを弁当に持っていってるでしょ、そうすると笑われるんだ。特に豚のしっぽなんか持っていったら笑われる。「あれなんだ、豚のしっぽだ。台湾人は豚のしっぽ食うのか」とわいわい騒ぎ立てるんだね。だから家に帰って母に、文句を言ったんです。弁当のおかずを日本式にしてくれ、卵焼きとかたらことか。なるたけ台湾食をなくしてくれって、要求したんです。だから、私の母もずいぶん苦労した。さくら干しとかみりん干しとかおかずにして持って行く。そしたら弁当のふた開けるのも堂々と開けられる。台湾式のおかず持って行ったら隠さんといかん。恥ずかしくて、笑われるから。あれ子供の時代・・・」
// 台北一中を卒業した台湾人生徒たちは、日本人の生徒と同様に高校や大学に進学しました。社会に出ると、さらに露骨な差別を受けることになります。
卒業生(日本語で語る):
「僕の親父は一番下の判任官(役人)になっていたけど、同じ判任官でも僕の親父は100円で、内地人は160円もらえるんだ。」
「同じ職場で、同じクラスでね。」「そうそう。」
「父も華南銀行にいたんですが、台湾人だと伸びないですよ。だからみんなお医者になるっていって。お医者になったら技術次第だから。」
柯徳三(日本語で語る):
「いとこの姉さんが日本人の嫁になって、日本へ行ったけど戸籍が入らん。あれが差別。こういうのが差別でしょう。最後の最後まで台湾人である身分を隠さんといかん。」
卒業生(日本語で語る):
「台湾においては一等国民は内地人で、二等国民が琉球、三番目が台湾人だ。」
// 台湾には当時、およそ1万人の沖縄出身者が暮らしていました。とりわけ多かったのが教育関係者でした。日本は既に同化が進んだ沖縄の人々を台湾に送りこみ、指導にあたらせていました。
NHKスタッフの声:
「日本時代をどう思いますか?」
卒業生(日本語で語る):
「もう嫌だな、嫌だ。差別、ばかにしよって・・・」
// 1923年、台湾総督府で大きな計画が持ち上がります。皇太子を台湾に招く行啓です。総督府がまとめた、台湾行啓記録には、その目的が記されています。
「我が国、皇道の博大なる仁愛を示し、遠く離れた台湾の民に、すがるべき主君を知らしめる」
// 皇太子を招くことで、台湾人に日本人と同じ臣民であることを実感させようとしたのです。皇太子を迎える予行演習。並んでいるのは先住民族です。演習に参加した先住民族の言葉が残されています。
先住民族の言葉:
「困ったのは不動の姿勢というやつだ。背中から汗が流れるが拭くこともできない、のみならず目の玉さえ動かすこともならぬ。それは自分らには生まれてはじめての大苦痛であった。」
// 1923年4月。皇太子、のちの昭和天皇が台湾に到着。当時、皇太子は病気だった天皇に代わり、公務を担っていました。皇太子は12日間に渡り、台湾各地をまわりました。視察したのは、統治によって日本化されてゆく台湾の姿でした。皇太子は学校や工場など、およそ100箇所を訪ねました。そして訪れた先々で台湾の人々に姿を見せました。台湾行啓記録の文章です。
「台湾人は日のいづる国の民という自覚に歓喜している。彼らは今や朝廷忠良の民となった。」
// 皇太子の行啓を、千載一遇の機会、ととらえた人物がいます。台湾議会設置運動の指導者、蒋渭水です。蒋は、皇太子の一行が自分の病院の前を通過することを知ります。考え出したのは、皇太子に直接、台湾議会の設置を訴えることでした。
蒋松輝(日本語で語る):
「親父はそのコースを狙って大きなのぼりを作った。」
// 恭しくお迎え致します、【恭迎鶴駕 台湾議会請願団】。のぼりに書かれた言葉です。
「(字幕)歓迎しますってことですか?」
蒋松輝(日本語で語る):
「目的は悪くない。台湾人が議会請願をしていることを摂政宮(皇太子)に知らせたかった。雲の上の人でしょ。知らないよね。台湾人がそういうことをやっているのを全然知らない。だから知らせようと思ってこれを作った。」
// 蒋渭水の病院前を通過する、皇太子の一行です。しかし、そこに蒋の姿はありませんでした。実行直前に警察に見つかり、拘留されたのです。台湾議会の請願は14年間続けられましたが、認められることはありませんでした。台湾の民族運動を研究してきた、歴史学者の周婉窈(しゅうえんよう)さんです。
周婉窈(台湾大学歴史学系教授):
「この時、台湾人は日本からの独立を求めていたわけではありません。日本の統治を認めた上で、自治を求めていたのです。ですから、日本が台湾人の訴えにこたえて自治を許していたら、日本はアジアで新たな世界を作り上げることになったはずです。そうすれば、今日でもアジアの人々の支持を得ることができたでしょう。しかし、日本はこの分岐点にさしかかった時、そうした行動をとることはありませんでした。台湾人の自治を認めることは無かったのです。」
// 1937年、日中戦争が勃発。台湾統治が新たな局面をむかえることになります。当時、台湾にはおよそ500万人の『漢民族』がいました。日本は、自らの領土内に敵と同じ民族を抱え込むことになります。当時の台湾総督、小林躋造(せいぞう)です。小林は、軍人出身者として、17年ぶりに台湾総督となりました。軍との結びつきを強めた総督府は、新たな統治方針を打ち出します。
「現下の情勢に鑑み、五百万島民が打って一丸となり、等しく皇国民たる資質を体得するを要す」
// 小林は、皇民化というスローガンを掲げます。皇民化とは、天皇中心の国家主義のもと台湾人を強制的に日本人へと変える政策でした。学校や新聞などで『中国語』を禁止し日本語の使用を強要します。当時、台湾総督府の官僚だった、田宮良策さん(98)です。田宮さんは、軍部の強い要請のもと、皇民化政策を担うことになります。
元台湾総督府官僚・田宮良策(98):
「日本語を話せない方はご遠慮ください、ということでバスは乗せなかった。しかし、人間の数からすれば日本人は微々たるものですから、台湾人同士で話す時には平気で(中国語を)話す。(軍の幹部に)実情を話し方法を変えてもらえないかというと、お前は非国民だ、と言われた。軍刀は抜かれたことはないけど、こうやられた(刀に手をかけられた)。」
// 皇民化政策は、人の名前の変更にまで及びました。同じ時期、朝鮮半島では、新たに氏を作る「創氏改名」が行われ、台湾では「改姓名」が始まりました。
★先の同窓会の風景
卒業生(日本語で語る):
「私、林(りん)です。僕のお父さんは林(はやし)という名前で改姓名したかった。それ許可出ないんです。台湾の林は必ず中林、大林、小林、もう一字付け加えないといけない。」
卒業生(日本語で語る):
「わたしは黄(こう)です。この字(黄)を残すように。」
NHKスタッフの声:
「それはどういう思いからなんですか?」
「昔の姓を残したい。昔の自分の姓を残したい。改姓名は結局、公務員の方ね。職場に就いてる人は、改姓名すると昇級の条件になってしまうんです。それで仕方なしに、みな改姓名するんです。」
// 皇民化政策は、台湾人の心の中まで踏み込んでゆきます。台湾全島に日本の神社を次々に建て、人々に参拝を強制します。
★背景・開復廟
// そして台湾人が拠所にしてきた、宗教への弾圧が始まります。道教寺院や廟(びょう)の参拝を制限。建物の取り壊しも始めます。この廟を管理する、鄭啓松(ていけいしょう)さんは、少年時代の出来事を克明に覚えています。1938年、地域の寺院や廟に祭られていた神々の像が集められ、全て焼かれました。
鄭啓松(80):
「(字幕)神様を掛け布団の中に隠した人もいれば、台所に隠した人もいました。それでも日本人は、神様を郡の役所に持ってくるように命じました。従わない者は29日間も刑務所に入れられるのですよ。」
// 新たに作られた日本の神社には、破壊した寺院や廟の木材も使われました。そして建築には近隣の台湾人が駆り出されました。皇民化政策によって、台湾の人々は台湾人であるという意識を大きく変えられてゆきます。
★先の同窓会の風景
柯徳三(日本語で語る):
「酒を飲むのも日本酒で、こういう人間にだれが育てたの、日本だ。しゃべるのも日本語、台湾語でこういう演説をできない。」
卒業生(日本語で語る):
「自称知識人と言いながら、中国文で今言ったような言葉かけないよ。書こうと思ったら日文ですよ。そこから見れば果たして幸福かどうか。」
柯徳三(日本語で語る):
「書けないよ、あんた書けますか、中国語で」
卒業生(日本語で語る):
「僕は書けないね」
柯徳三(日本語で語る):
「頭のコンピュータが既に日本化されてしまってるから。あの二十何年間の教育というのは、実に恐ろしい。頭が全部ブレーンウォッシュ(洗脳)されてるからね。だから日本式にものを考えたり、日本式に日本語をしゃべったりする。」
// 近年、日本統治時代を記録したフィルムが発見されました。ここには、皇民化政策の行き着いた先が映し出されていました。戦時下、台湾青年を集めた訓練所が、各地に作られてゆきます。そこでは皇民化政策によって、日本人としての精神が叩き込まれました。台湾の青年たちは、天皇の兵士として日本軍に加わり、国の為に命を捧げることになります。担ったのは日本の政策、南方進出でした。
元台湾総督府官僚・田宮良策(98):
「軍の考えじゃ(台湾を)南進基地にしたいと、そうすると敵になるような人を向こうに回しちゃまずいから、結局、自分の同胞にひっつけておいた方がいいと。日本人にしたほうが、将来南方の海洋国家になっていくのには、あそこ(台湾)を本拠地にする。軍部としてはそう考えたんじゃないでしょうか。」
// 1941年12月、太平洋戦争が勃発。日本は戦争の目的を、欧米列強からアジアの植民地を解放することである、としました。
総督府前を行進する「台湾人日本兵」です。太平洋戦争期間中、およそ21万の台湾人が日本軍に入隊します。そして、中国や南方戦線へと送られてゆきました。台北一中を卒業した柯徳三さんは、このころ、台北帝国大学の医学部に進学してしました。1945年4月、柯さんは日本海軍に入隊します。訓練中、アメリカ軍の大空襲をうけ、多くの台湾人兵士が命を落としました。さらに親族も犠牲になります。
柯徳三(日本語で語る):
「それだから、神子一人のためとか、喜んで天皇陛下の為に死んでいってる。死んだ奴こそ災難だよ。ほんと。戦争で犠牲になってね。叔父は海軍の軍属でマラリアにかかって海軍病院にはいっとった。それで帰れるかと思ったら帰れない。死んでる。マラリアで死んだのか、殺されたのか、どうされたのか、分かりません。全然、未だに分かりません。勿論、骨もありません。」
// 1945年8月、敗戦。日本は50年に亘って統治した台湾を手放します。JAPAN、アジアの一等国の終焉でした。
★最初の公園の風景
群衆の一人、日本語で歌う:
「太平洋の空遠く、輝く南十字星……」
// 戦場に赴いた、元台湾人日本兵です。太平洋戦争中、3万人を超す台湾人が戦場で命を落としました。
群衆の一人、日本語で歌う:
「守りはわれら台湾軍、ああ厳として台湾軍~」
群衆の一人、日本語で語る:
「あの、教育勅語ね、教育勅語。今ほとんど皆、分かりますよ。暗唱しちゃいましょうか」
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ……」
// 戦後、台湾を統治したのは、蒋介石率いる中国国民党でした。日本兵として中国と戦った台湾人は、かつての敵の下で暮らすことになります。台湾人は日本人の奴隷になったと非難され、国民党と衝突。多くの人々が処刑されてゆきました。
★再び公園の風景
群衆の一人、日本語で語る:
「みなしごになって捨てられたみたいですよ。人をばかにしてるんだ日本は。間違ってるか?本当のことだろう。日本の若い連中はわからないけど80歳以上の人に宣伝してください。台湾の当時の若い青年はいかに日本の民と協力して尽くしたか。心を察してもらいたい。」「命をかけて国のために尽くしたんだよ。」
★同窓会の風景。台北一中、パイワン族の写真など
フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「私たちは、他者と共有できる歴史を探り当てなければなりません。他者の歴史を知ることは、自分自身を知ることでもあります。私たちはもはや正しく優れているのは自分で、間違っていて劣っているのは相手だ、と考えることはできません。世界に目を向け、なぜ世界の人々が、日本をこのように見るのか、理解しなければならないのです。」
★渋谷界隈の夜景
// 親日的とも言われる台湾で、今も残る日本統治の深い傷。それは今後、アジアの中で生きていく日本が、わかちあわなければならない現実です。過去と向き合う中から見えてくる未来。150年前に世界にデビューしたJAPANの歴史が、私達、ひとりひとりの明日を問いかけています。
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★エンドロール
NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー
第一回 アジアの“一等国”
資料等協力(略)
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:竹内秀一
編集:渡辺政男
ディレクター:濱崎憲一、島田雄介
政策統括:田辺雅泰、河野伸洋
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※下記のブログより一部、転載・引用させて頂きました。
・夕刻の備忘録
http://jif.blog65.fc2.com/
※1 発言者名の修正(2009年06月24日)
チャンネル桜の取材により許新黄さんの発言ではないことが分かった為。
投稿者 zunichi : 2009年04月20日 00:56
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コメント
■NHKスペシャル/シリーズ JAPANデビュー"天皇と憲法"―NHkまた酷い偏向報道!!
こんにちは。連休中の5月2日に放映された、NHKスペシャル JAPANデビュー"天皇と憲法"は、また酷い偏向報道でした。この番組をあまり予備知識のない人が見たとしたら、大日本帝国憲法否定、日本国憲法否定、天皇制否定という流れに何の違和感もなく同調してしまうことでしょう。無論この番組では、このようにはっきりとはいっていません。あくまで、視聴者に考えさせているような体裁を繕いながら、結局は、天皇制否定に誘導しています。とんでもない偏向報道であり、このようなことを繰り返すNHKは最早国民のための公共放送とはいえず、解体すべきものと思います。詳細は是非私のブログをご覧になってください。
投稿者 yutakarlson : 2009年05月09日 11:26
>yutakarlsonさん
コメントありがとうございます。私も5月2日に放送された「天皇と憲法」はしっかりと見ていました。ご指摘どおり無茶苦茶な番組でしたね。偏向しているしていない以前に、番組の構成があまりにも雑。歴史的経緯といったものが全く見えてこないものでした。
ブログも拝見させて頂きました。私はまだまだ、明治、大正、昭和の歴史は勉強不足なので大変参考になりました。NHKは公共放送ではなく中共放送になってしまったようですね(笑)。
投稿者 zunichi : 2009年05月09日 21:01
『北朝鮮と台湾の関係』 核廃棄物
核開発などで何かと話題に上る北朝鮮と台湾の以外な関係をまとめてみましたので
ご参考まで。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/500.htm
http://72.14.203.104/search?q=cache:Dgo-61n9W8sJ:nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/500.htm+%E6%A0%B8%E5%BB%83%E6%A3%84%E7%89%A9%E3%80%80%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%80%80%E6%9D%8E%E7%99%BB%E8%BC%9D&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2
日本財団 図書館
1997/06/10 世界週報
必ずしも足並みがそろわぬ米側の対応
加えて、四月一二日、李登輝総統は、イギリスの賓客との会見の中で、
北朝鮮問題とそれに関する台湾の対応策に言及したといわれる。
だが、かねてから話題となっていた台湾の核廃棄物を北朝鮮で処理する問題については、
既述のギングリッチ米下院議長ですら李登輝総統との会見で抑制を促したもようである。
http://ritouki-aichi.sblo.jp/article/31540733.html?reload=2009-08-27T15:15:16
愛知李登輝友の会ブログ
2009年08月23日
のコメント欄をご覧ください
投稿者 おなか一杯 : 2009年09月18日 17:51
